実は筆者は日本の「縄文時代」に興味を持っています。
古代への興味は、ご多聞に漏れず、邪馬台国や卑弥呼といった弥生時代を舞台にしたミステリアスでロマン溢れる物語から入りました。もう50年以上前の話ですが、創刊号から愛読していた雑誌COMに連載していた手塚治虫の「火の鳥」は大好きな作品でした。特に「黎明編」、「ヤマト編」など古代を舞台にしたものが好きでした。同じく漫画ですが、原作・寺島優、作画・藤原カムイの「雷火」も好きな作品のひとつです。AmazonのKindle Unlimitedの対象になっていたので、先日も全巻ダウンロードして読み返しましたが、やっぱり面白かった。その他、書籍やテレビ番組などで日本の古代を扱ったものは好んで見ていましたが、やはり弥生時代以降をテーマにした話が多かったように思います。
古代の中でも特に縄文時代を強く意識し始めたのは、信州に旅行した時にふと訪れた尖石遺跡で「縄文のビーナス」に出会ってからでしょうか。その美しいフォルムに目を奪われ、その造形を作り上げた5千年前の縄文人は何を考え、どんな生活を送っていたのかを知りたくなりました。縄文時代に関する本を読み、鹿児島県の上野原遺跡や青森県の山内丸山遺跡なども訪れました。荻原浩の「二千七百の夏と冬」という縄文時代晩期から弥生時代へ移っていく頃を舞台にした長編小説に感動し、縄文への思いはより強くなったかも知れません。
普段各地の遺跡を訪れる人はそんなに多くありませんが、今年の夏に東京国立博物館で開かれた「縄文展」には、連日多くの人が訪れて大盛況だったようです。筆者も久し振りに「縄文のビーナス」に再会し、多くの土偶、土器に接して、改めて縄文時代の文化的な先進性を認識しました。
縄文時代が人々を惹き付ける理由は、日本列島という閉ざされた土地で、1万年という長期に亘って継続的にはぐくまれた、世界に類を見ない文化が存在したという驚きと、そこに我々日本人が共通に持っている精神性のルーツがあるかもしれないという期待があるからではないでしょうか。
そして縄文人の熟成された心のあり方が、縄文時代から弥生時代への革命的な変化を受け入れ、乗り越え、今日の日本が形成されていったとすれば、そこには人類の未来に対する大きなヒントが隠されているのではないか、なんて思ったりします。