sora’s 早起きノート

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「善きサマリア人」って知っていますか?

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「善きサマリア人」ってご存じでしょうか。恥ずかしながら筆者はこの年まで知らなかったのですが、最近米国のニュースでよく目にするので、ちょっと調べてみました。

少し堅い話ですんません。(^_^;

ルカによる福音書

「善きサマリア人」というのは、キリスト教の新約聖書の「ルカによる福音書」10章25節~37節に書かれている話から来ています。

ちなみに新約聖書っていうのは、福音書、使徒言行録、パウロの書簡、公同書簡、ヨハネの黙示録で構成されています。

福音書とはイエス・キリストの生涯と言行が記されているもので、新約聖書には「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」4つの福音書が含まれています。

この内「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」の3つは内容に共通点が多いのですが、「善きサマリア人」の話は「ルカによる福音書」にだけ書かれているものです。

ちなみに「福音」はギリシャ語で「エヴァンゲリオン」、英語で「ゴスペル」なんですね。関係ないけど。(^_^;

善きサマリア人の話

さて、善きサマリア人の話については、以下に「ルカによる福音書」第10章25節~37節を引用します。

10:25するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
10:26彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
10:27彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
10:28彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
10:29すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
10:30イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
10:37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 日本聖書協会「口語訳新約聖書」ルカによる福音書

この部分は、イエス・キリストが語った隣人愛と永遠の命に関する例え話とされていますが、背景が分からないと理解しにくいです。

サマリア人というのはユダヤ人にアッシリア人の血が混じった人々で、純血を重んじるユダヤ人からは軽蔑されていたのですね。

そんなサマリア人が、行きずりの旅人に対してとった慈悲深い行為を、敢えて隣人愛の模範としてユダヤ人の学者に例示しています。

善きサマリア人の話は、困っている人を助けるという隣人愛のエピソードとして捉えられているようですが、イエス・キリストはそれだけではなく、民族主義を否定し、民族を超えた隣人愛のあり方を示しているのだと思います。

善きサマリア人の法

「善きサマリア人」の概念から生まれた法律があるそうです。

それは「善きサマリア人の法」といって、困っている人を助けようとして結果的に良い結果にならなかった場合に責任を問わない、という主旨の法律のことで、米国、カナダなど多くの国で定められています。

残念ながら日本では、民法第698条の緊急事務管理に関する規定や、刑法第37条の緊急避難に関する規定があるものの、「善きサマリア人の法」の概念のもとに定められたものではないようです。

隣人愛と慈悲の心

以上、「善きサマリア人」について簡単に調べてみました。

キリスト教の隣人愛に対して、仏教では慈悲の心を説きます。仏教では「愛」は執着を生む煩悩とされているのですね。まあこの辺は言い方の違いであって、本質は変わらないのかも知れません。

筆者はキリスト教徒でも仏教徒でもありませんので、もしかしたら誤解している部分があるかも知れませんが、他者を尊重するという考え方は、宗教によらず普遍的なものだと思います。